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トップ>日本の歴史・地理・社会>戦国武将一覧 | |||
戦国武将
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戦国時代の武将や人物。どんな人かを記載。。
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伊達政宗 (1567-1636) | |||
◆ 独眼竜の異名を持った奥州一の大名 ◆ | |||
○ 伊達家16代当主の伊達輝宗の長男として生まれた、18歳の時に伊達家17代当主となる | |||
○ 幼いころ天然痘を患って右目を失った。世に「独眼竜」とよばれた 幼名は梵天丸(ぼんてんまる) | |||
○ 1585年、父の輝宗が畠山義継に拉致された。政宗は父を奪還するためにすぐに出陣するが、父を盾にされ手が出せない状態であった。 「自分もろとも攻撃せよ」という父・輝宗の言葉に、攻撃を決意、父もろとも畠山義継を射殺した。 | |||
○ 関白・豊臣秀吉は関東・東北の諸大名、特に関東の北条氏と東北の伊達氏に対して、私戦禁止命令を発令した。 しかし、政宗は秀吉の命令を無視して戦争を続行し、蘆名氏・佐竹氏など有力大名を次々と撃破。をわずか5年足らずで奥州の大半をその手中に収めた | |||
○ 父・輝宗の射殺事件がきっかけで母・義姫との関係が悪化。義姫は次男の小次郎を伊達家当主にしようと画策する。 それが露見し、政宗は実の弟を殺害する。 | |||
○ 天下統一を目指す秀吉が北条氏の小田原城を攻める前、秀吉から上洛して恭順の意を示すよう促す書状が何通か届けられており、政宗は従わず無視していた。 小田原に参陣すべきか、同盟を重視して北条氏につくか迷っていた。 徳川氏が秀吉側についた事や、秀吉の兵動員数を見てから政宗は秀吉側についた。 小田原攻めに遅参した事で謁見が許されず、箱根山中の「底倉」に滞在を強要される。 秀吉に完全に命を握られた危機状態にありながら、前田利家や浅野長政らが来訪した際には臆することなく受け答え、さらに本陣にいる茶人・千利休に茶の指南を受けたいと懇願した。 この事は秀吉らを感嘆させた。この行為は秀吉の派手好みの性格を知っての行いと伝えられる。 | |||
○ 文禄2年(1593年)秀吉の朝鮮出兵に従軍する。 | |||
○ 謀反の疑いをかけられた豊臣秀次が切腹、秀次と親しかった政宗も謀反の疑いをかけられたが、徳川家康の秀吉へのとりなしで秀次との謀反は無関係であるとされて難を逃れた。 | |||
○ 秀吉が没し、関が原の戦い後、長女・五郎八姫(いろは姫)を家康の六男・松平忠輝と婚約させてさらなる権威を求めたり、配下の支倉常長をヨーロッパに派遣して鎖国によって禁じられていた外国との交流を独自に開拓しようとするなど野心は衰えなかった。 | |||
○ その後、徳川家康から徳川家光まで三代に仕えた。享年70。死因は癌性腹膜炎あるいは食道癌(食道噴門癌)と推定されている。 辞世の句は、「曇りなき 心の月を 先だてて 浮世の闇を 照してぞ行く」 | |||
← 伊達政宗像 仙台城(青葉城)址の天守台に立てられている。 | |||
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